鳥見神社2022年05月28日 13:53

小林の鎮守として古くから親しまれている神社で、鳥見の名は、北総地域限定で全国的には珍しいそうです。また、神社の境内には、末社として、天神社、神武天皇社、鹿島社、香取社、大杉社、八坂社が祀られています。

石碑によると、大和の国、鳥見(とみ)の郷に住む、天より降り立ったアメノニギハヤシノミコトにつながる一族が、神武天皇即位の後、この郷を天皇に譲り(国譲り)、この地に移り定住、崇神天皇五年(紀元前93年)、アメノニギハヤノミコト、ウマシマチノミコト、ミカシギヤヒメノミコトの三柱を祭神(さいじん)とし創建されたとのこと。

ただ、卑弥呼よりもずっと古い神話の時代の創建になってしまうので、祭神が物部氏の祖先神と同じことから、実際には、物部氏と関係のある一族が、東国開拓でこの地に来て定住、5~6世紀頃、神社を創建したと、勝手に推察しています。また、周辺には古墳群もあり、この一族が、鳥見神社を中心に、この地域治めていたと思われます。

社殿には、江戸後期に描かれた水防絵図が掲げられていますが、これは、天保12年の大雨の際、洪水を防ぐことができたのは、大神の守護があったためと、奉納されたものだそうです。

稲荷神社 創建に関わる伝承2022年05月29日 19:23

寿永三年(1184)、木曽義仲が源範頼・義経軍に敗れたのち、その妻、巴御前とその子たちは、和田義盛の庇護を受けるものの、和田義盛は、建暦三年(1213)和田合戦で戦死。巴御前は難を逃れて小林に隠棲、恋夫義仲が信仰していた稲荷様をこの地に祀ったと伝えられています。

小林村鏡によれば、朝比奈三郎義秀(巴の子)が小林城を築城したとあり、巴御前は義秀の根拠地である当地に遁れてきたものと思われます。近くには巴の墓といわれる「巴塚」があります。

南弘防歸國稲荷神社2022年05月29日 19:41

創建 鎌倉初期
尊号 南弘防歸國稲荷大神(南弘防歸國稲荷神社)
鎮座 印西市小林天神前(稲荷台)
祭神 宇迦之御魂命(ウカノミタマノミコト)

創建当初より江戸初期までは、「朝日稲荷」と呼ばれていたようですが、いつのころからか、南弘防歸國稲荷神社と呼ばれるようになったとのことです。朝日稲荷の尊号は、創建に関わったとされる巴御前の前夫で、朝日将軍と呼ばれていた木曽義仲に因んだものと言われています。

南弘防歸國稲荷神社と呼ばれるようになった時期や理由は不明ですが、隣接する天台宗普賢院光明寺(山号は稲荷山)が創建(江戸初期)された際、徳川家康の側近(宗教ブレーン)で、当時影響力のあった、南光坊天海の名を冠した尊号と変更されたのかもしれません。

台方八坂神社由緒2022年05月30日 19:18

言い伝えによれば、江戸時代、この小林で疫病がはやり、地域の有志により、当時、疫病治癒退散にご利益のある強い神様とされた、牛頭天王を祀った神社(現、東金市松之郷八坂神社)を訪れ、疫病退散を祈祷したところ、病人は治癒し、疫病は退散したとのこと。住民はこれに感謝し、牛頭天王を当所に祀り、毎年7月7日例祭をおこない、住民の健康を祈った。

牛頭天王が、いつこの地に祀られたのか正確な時期は不明であるが、奉納された手水鉢などから、江戸後期にはすでに祀られていたと思われる。

天王様として信仰を集め、住民に親しまれてきたが、明治元年に神仏分離令が施行され、廃仏毀釈運動がたかまり、牛頭天王の生まれ変わりとされるスサノオノミコトを祭神とする八坂神社となった。現在も牛頭天王の木札が掲げられている。

祭神 スサノオノミコト
鎮座 印西市小林天神前

祇園祭2022年05月30日 19:25

台方八坂神社の例祭として、毎年7月7日に行われてきたが、サラリーマンが増え、生活様式の変化に伴い、7月7日の本祭と海の日の前日(日曜日)の神幸祭に分けて行われるようになった。

本祭では、限られた関係者による祭祀が行われ、神幸祭では、神輿、お囃子を中心に、各宿を巡り、地域住民の健康を祝うとともに、交流の場として賑やかに催されている。

令和2(2020)年、令和3(2021)年はコロナ禍により、神幸祭は自粛、本祭のみ催行された。今年度も本祭のみが予定されている。