巴塚2024年04月30日 16:19

 巴塚に新しい案内板が設置されていました。

 案内によれば、巴塚に立つ供養塔(板碑)は、「南無妙法(蓮)・・」と書かれた「題目板碑」とのこと。 「題目板碑」は、鎌倉中期以降室町期に、法華宗の信徒により建てられた供養塔として知られているので、巴の生きた時代、日蓮が法華宗を開いた時期、「題目板碑」が広がった時期を考慮すると、巴が亡くなったときに建てられたのではなく、巴の子孫あるいは巴を慕う村人が、後世になって建てたものと推察することもできますね。

 また、「せんげんやま」が集めた伝承では、巴御前とともに小林に土着したのは、巴の子でしたが、この案内によると、巴の孫(朝比奈義秀の子)のようです。子の場合も孫の場合も、土着したのは川村三郎秀景とされています。

南弘防歸國稲荷神社2022年05月29日 19:41

創建 鎌倉初期
尊号 南弘防歸國稲荷大神(南弘防歸國稲荷神社)
鎮座 印西市小林天神前(稲荷台)
祭神 宇迦之御魂命(ウカノミタマノミコト)

創建当初より江戸初期までは、「朝日稲荷」と呼ばれていたようですが、いつのころからか、南弘防歸國稲荷神社と呼ばれるようになったとのことです。朝日稲荷の尊号は、創建に関わったとされる巴御前の前夫で、朝日将軍と呼ばれていた木曽義仲に因んだものと言われています。

南弘防歸國稲荷神社と呼ばれるようになった時期や理由は不明ですが、隣接する天台宗普賢院光明寺(山号は稲荷山)が創建(江戸初期)された際、徳川家康の側近(宗教ブレーン)で、当時影響力のあった、南光坊天海の名を冠した尊号と変更されたのかもしれません。

稲荷神社 創建に関わる伝承2022年05月29日 19:23

寿永三年(1184)、木曽義仲が源範頼・義経軍に敗れたのち、その妻、巴御前とその子たちは、和田義盛の庇護を受けるものの、和田義盛は、建暦三年(1213)和田合戦で戦死。巴御前は難を逃れて小林に隠棲、恋夫義仲が信仰していた稲荷様をこの地に祀ったと伝えられています。

小林村鏡によれば、朝比奈三郎義秀(巴の子)が小林城を築城したとあり、巴御前は義秀の根拠地である当地に遁れてきたものと思われます。近くには巴の墓といわれる「巴塚」があります。